後藤 基次
後藤 基次(ごとう もとつぐ)は武将。1560年~1615年。播磨三木城主、別所長治の家臣である父の次男として生まれる。幼少の頃から黒田氏の家臣として仕え、数多くの軍功を挙げるも伯父の謀反により一時、黒田家中から追放されてしまう。その後、再び黒田氏の家臣として仕え、朝鮮の役、関ヶ原合戦で活躍し、小隈城1万6千石を与えられる。しかし、それもつかの間、長政に謀反の疑いをかけられ、浪人を余儀なくされ乞食にまで身を墜してしまう。長政は朝鮮の役の時に組合川中に落ち、その時傍にいた後藤 基次が力を貸して助けることをしなかったため、そのことをずっと恨みに思っていたらしい。もしかすると、そのせいで仕官を邪魔されていたのかもしれない。1614年、豊臣家からの招きに応じ「討ち死にを持って厚志に報いる」と語ったという。その翌年、夏の陣においても多勢に無勢ながらも奮戦したが片倉重長率いる鉄砲隊に腰を撃たれ歩行不能となり、部下に介錯させ、自刃したという。