柴田 勝家
柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代~安土桃山時代にかけての武将・大名。1522年頃~1583年。尾張国愛知郡上社村で生まれ、斯波氏の一族とも言われている。1551年に信秀が死去すると、子の織田信行に仕え、信行の死後、信長の家臣となった。信長の重臣中の重臣として数々の武功を挙げた。本能寺の変後、後継者問題で信長の三男を推薦したが明智光秀を討伐したことで株が上がっていた豊臣秀吉の意見が取り入れられ、家督は三法師が継ぐこととなり勝家と秀吉の立場は逆転してしまった。その後も勝家は秀吉と賤ヶ岳において決戦するが大敗。越前北ノ庄にてお市の方と共に自害した。なぜ秀吉に敗れたのか。勝家は人望も戦場経験も豊富であったのだから武将の器量の差ではないだろう。織田氏への忠誠心の厚さが、逆に勝家の行動を抑えてしまったのではないかと言われている。伊勢長島の一向一揆や、越前小谷戦など、数々の働きで『鬼柴田』とも呼称されていた。