加藤 清正
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代~江戸時代にかけての武将・大名。1562年~1611年。尾張中村で加藤清忠の子として生まれる。母が秀吉の生母の従姉妹(伯母とも)にあったため、3歳で父を亡くした後、秀吉に預けられ、秀吉とその正室ねねに養育を受けたと言われる。幼名は虎之助。1582年、織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って同年の山崎の戦いに参加した。1596年、石田三成と意見の対立が生じ、それが元で秀吉の勘気を受け京に戻される。秀吉の死後も三成らとの溝を埋めようもなく、前田利家の死の直後、七将とはかり、三成を襲撃するが未遂に終わる。そして五奉行から失脚させられるのである。城造りの名人として知られ、石垣の構築に清正独特の工夫がこめられており、大きな反りを持たせた形が特徴である。1611年、帰国途中の船内で発病し、熊本で死去。一説では毒殺の噂もあり、豊臣家には衝撃が走った。