島津 義久
島津 義久(しまづ よしひさ)は、薩摩国の戦国大名。1533年~1611年。伊作亀丸城で島津貴久の長男として生まれる。島津貴久は源頼朝の庶長子であるが島津家の系図においては、頼朝庶子は誤り、とされている。幼名は虎寿丸。祖父忠良の娘(叔母)を妻に迎える。島津氏は、ポルトガル人にもたらされた種子島の実戦使用、宣教師ザビエルへの布教の許可など、歴史的事蹟を残している。1566年、父の隠居に伴って家督を相続し、島津家第16代当主となり、その頃から伊東義祐との抗争が激化していく。1572年、3000人の軍勢で伊東祐安率いる軍に侵攻されるも、義弘はわずか300人で出陣。誘い込み作戦で強襲した。これを『木崎原の戦い』と言うが、九州の桶狭間とも言われている。島津は伝統的な戦術「くり抜き」を得意とした。魚麟や鋒矢など突撃型で野戦特有の陣形と言われている。また、龍造寺と戦った島原合戦においては「釣り野伏せ」という伏兵、奇兵の類を組み合わせた戦術を使ったと言う。