大谷 吉継
大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代~安土桃山時代にかけての戦国武将・大名。1559年~1600年。近江国で生まれたとするのが通説で大友宗麟の家臣、盛治の子。大谷吉房とする説も有力である。母は豊臣秀吉の正室の侍女であると言われている。父、森治が大友氏を離れ、流浪したのち、石田三成とともに秀吉に仕え、敦賀5万石の城主となる。本能寺の変その後に柴田勝家と秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いで大手柄を立てた。1598年秀吉が死去した後、徳川家康に接近。三成と家康を仲直りさせるために一役買おうとするが、親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられ、何度も断ったが熱意にうたれ西軍に与した。関ヶ原では、重病のため眼を患い、兵の指揮に当たったが、松尾山の小早川軍の裏切りにより背後を突かれ、死期を悟り、家臣、湯浅五介に介錯を命じ自害した。その首は側近の手により関ヶ原の地中深くに埋められたため、東軍側に発見されることはなかったという。